人間がいつの時代から肉食を始めたのか,その筋の学者の間では激しく議論されているが,はっきりとした説と結論は,未だに出ていないようである。
畜産に関係する者としては,常日頃この事について,常識として是非知っておきたい気がしていた。今回いろいろな参考書を漁り充分でないにしろ,食肉の文化についてある程度のことを知ることが出来たので,その概要を紹介して見たい。
人間が食肉を始めた起源は,人類の誕生と同じ頃であった,と言う説が近年有力になっている。その証拠には,北京原人の住んでいたとされている洞窟や古代人の貝塚,古墳,などから,いろいろな動物の骨が発見されている。その主なものは,イノシシ,シカ,クマ,ゾウ,ウマ,ウシ,ウサギ等々な動物の骨が発見されているという。
現代の食肉文化は,古代から人間の生活の中から生まれてきたものであることは,否めない事実である。しかも,その地域及び人種の違いによる事が認められている。例えば宗教的なものや習慣の違い,あるいは人間の心理的背景に起因するものや,また,その国における社会の法的規制によるもの等が考えられる要因とされている。
宗教によるものとしてよく知られているのは,食肉としての牛肉のタブーや豚肉のタブーがある。しかし,これらのことも時代の流れによっては,何時の間にか消滅してしまうものもある。時の流れが人間の食肉の文化を変えて来たとも考えられる。
インド人の牛肉のタブー
現代の社会で常識的に知られているものとして,食肉のタブーは,インドであろう。国民の大多数はヒンドウー教徒で占められ,その信仰の規律のため,食肉を忌避し菜食主義者が多いとされている。その理由は,肉食を断つことによって,人間が持つ本来の獣性を無くし,人間としての尊厳性を保って行こうとするものであるとされている。特に牛を食肉とすることはタブーで,その理由としてインドの長い歴史の中で,牛は人間の仕事の補助協力してきた温厚な動物であったことと,その牛の生産する牛乳は,母なるものの子供を育てる貴重なものとされ,牛はシゥア神のシンボルとして神聖化された為で牛肉を食することは,神を冒涜するものと考えられるようになったとされている。
イスラム教・ユダヤ教徒の豚肉のタブー
イスラム教徒やユダヤ教徒は,豚肉を食べることを禁止されている。その理由として豚は汚物や泥の中を転げまわり,あるいは他動物の排
泄物まで平気で食べることから豚の体内は,汚物まみれになっているとされ,そのためその肉も血液も不浄なものとして食肉として禁止されている。しかも豚肉だけでなく,豚肉を処理した鍋や調理器具更に盛り付けた食器までも不浄なものとしてまで取り扱いを禁止している。
馬肉のタブー
英語圏の国では,一般に馬の食肉はタブーとされているところが多い。ユダヤ教やキリスト教の宗派では馬肉の禁止のところが多いが,フ
ランスではイギリスと違って必ずしも馬肉はタブーでないところもあるらしい。我が国でも東北地方では,かなり古くから馬肉は食べられてきており,九州地方の馬刺しは,有名である。しかし,競馬関係者や競馬愛好者の間では,馬肉は敬遠されている傾向がある。
ウサギ肉のタブー
ユダヤ教徒とユダヤ人のキリスト教徒は,何故かウサギは不浄のものとして,その肉を食することを禁止している。しかし,ヨーロッパの諸国では,ジビエ(狩猟鳥獣肉)としてウサギ肉を食用にしている処もあるし,野菜くずや穀物類で飼育したウサギは,肉用として使用する事もあるようだ。しかし,最近では,ウサギをペットとして飼育している地域では,食用とする事に抵抗を感じているようなところもある。
犬肉のタブー
犬肉の食肉文化を持っている国では,イヌをペットとして飼う一方,食用に供することもあるようだ。とくにお隣の韓国では,犬肉は「タ
ンコギ」と称し,夏場の暑気払いの体力つけのために食用としているようだ。現在この習慣は,韓国の愛犬家と犬肉嗜好者との間に紛争が絶え
ないということを聞いたことがある。
2002年に日韓サッカーのワールドカップの開催の時に,FIFAの会長から韓国に対し,韓国の犬肉の食用を禁止するよう要請したが,韓国の習慣であることを理由にこれを拒否したと,云うニュースが流れたことが思いだされる。
また,中国では,イヌは一般的に食用とされ,食用専用の「チャウチャウ種」が飼育されている。また,スイスのある地域では,犬のジャー
キーやソーセージが生産販売されているところもあるという。
因みに2020年(平成32年)7月24日〜8月9日までに東京オリンピックの開催が決定され,全世界の164か国から4200人を超えるスポーツ選手が参集することになっているが,その方々の食事各国人種の違い,宗教の違いから食事内容も千差万別になることが予想される。日本が真の「オ・モ・テ・ナ・シ」をするには,食肉の事情にも精通してトラブルの無いように心がける事が必要となるであろう。
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