茨城の養鶏産業は古く、『水戸市史中巻2』によると、水戸藩内の特殊産物である漆、和紙、こんにゃく、養蚕、水府煙草等を江戸方面に出荷するために、その産物ごとに会所なるものを設置して領内特産物の統制と出荷を規制していたとされている。養鶏関係についても天明6年(1781)に「諸鳥及び玉子商売会所定法」が定められ、城下の上町と下町にそれぞれ一軒の商人を指定し、諸鳥と玉子の会所を設置し、諸鳥や卵の江戸への出荷を規制している。明治期には鶏肉を食用にする傾向が見られ、県北の一部多賀郡下に千羽飼いと称する数百羽の鶏を飼育する者も見られるようになっている。

 茨城の家禽コレラの発生 
 茨城県の『産業調査書』(大正8年)によると、家禽コレラが法制化される以前の大正6年に鹿島郡徳宿村を中心に発生流行した記録がある。
「茨城県産業調査書大正8年 家禽虎列刺 大正六年十二月鹿島郡徳宿村ニ初発シ漸次蔓延鉾田町ヲ中心ニ、一町四村ニ亘リ大正七年三月終息セリ、斃死羽数約千余羽ニ及ブ予防トシテ罹病禽ノ隔離鶏舎ノ消毒ヲ行ハシメ 尚本病ニ関スル心得ヲ印刷配布セリ」
 茨城県における法的家禽虎列刺の発生は、家禽コレラが大正11年に法定伝染病として取り上げられたその翌年の大正12年3月29日に県西地区の真壁郡黒子村大字辻(関城町)の村井庄太郎飼育鶏雑種50羽が家禽虎列刺と決定され、茨城県告示第168号で公示されている。本病が法制化されてからの茨城県における第1号の家禽コレラの発生とされた。その後4月26日に真壁郡騰波江村大字若柳(旧下妻市)に2羽の発生、さらに5月20日に至って結城郡豊加美村大字樋橋(旧下妻市)の本橋惣吉・本橋林一宅で2羽の発生、6月19日真壁郡下妻町(旧下妻市)田中秀太郎飼育の鶏50羽が検査の結果家禽虎列刺と決定され告示されていることからこの流行は、県西地域に限定されていた。

 ひな白痢の清浄化 
 ひな白痢は、昭和15年に法定伝染病に指定され、昭和15年からひな白痢検査が実施されてきた。しかし、社会情勢が戦時体制になったためか検査羽数等の詳細な記録が残されていない。茨城県の検査結果は、昭和15年に942羽、22年189羽、25年1827羽、35年8639羽が陽性鶏として摘発淘汰されている。その後35年の最多摘発をピークに陽性鶏は減少傾向を辿るようになった。 
 茨城県におけるニューカッスル病の発生
   昭和11年8月勅令を以って鶏のウイルス病が家禽コレラとして法制化された。ニューカッスル病もこの中に含まれていたが、昭和26年6月からニューカッスル病は家禽ペストとは別の病原体によって起こるも疾病として単独の伝染病として法制化された。茨城県のニューカッスル病は、昭和26年7月に当時の東茨城郡長岡村大戸の865羽の発生が最初で、次いで8月に真壁郡上野村鶏8羽発生と続いた。当時の県報告示では、「告示444号26年7月30日知事友末洋治 ニューカッスル病 鶏865羽、東茨城郡長岡村 7月2日決定、殺処分773羽 92羽へい死」と回復7羽の記録されている。この長岡村は現在の茨城町で、数戸の種鶏家の間に発生したものである。

 茨城内の鶏病の傾向 
 県内における鶏疾病について茨城県家畜保健衛生業績発表や県内の病性鑑定施設のデーターから年代別に、その傾向について調べて見たところ、育すう、育成、成鶏によって多発する疾病が異なっていた。

 高病原性インフルエンザの発生 
 平成17年6月県西地区から発生し、県南部で大流行した鳥インフルエンザは、病性鑑定の結果、わが国ではじめてのウイルスタイプでH5N2型の弱毒タイプとされている。このタイプは中南米やブラジル等で発生しているものと同類であつたため、その侵入経路が問題視されている。抗体またはウイルスの確認された養鶏場は、40農場で殺処分及び淘汰羽数は、実に5,682,640羽に及び、その被害額は推定で100億円と推定される。

 終わりに 
 明治、大正、昭和、平成と、100年余足らずの間に社会情勢は、大きく変貌しこれに伴って畜産事情にも多大な変化が見られ、更に、わが国における度重なる戦争の影響、特に昭和20年の敗戦は、わが国の全てのものに影響を及ぼしている。終戦後の養鶏産業についても同様で、農家の副業的養鶏から企業養鶏へと進歩し、その飼育羽数の増大は、目覚しいものであった。これに伴い鶏病についても同様で、飼養構造や衛生分野での学問的進歩と技術の発達は、鶏病についても大きな変化をもたらして来ていることが分かった。