前回(18年10月号)は「奥久慈しゃも」の誕生とその経過をかきました。順序が逆になりますが、今回は「軍鶏」の渡来と茨城における飼育ついて書いてみます。

(軍鶏)
○始めに
 鶏の家畜化の当初、その用途は報展用(時を告げる)、あるいは闘鶏用であったとする説があります。闘鶏は占いをかねる場合もあって鶏の伝播とともに世界中に広まり、古代ギリシャ、ローマでも盛んに行われました。日本でも上代から「鶏合せ」と言われて、平安時代には特に盛んであったことが、明らかにされています。3月3日には朝廷の儀式として闘鶏が行われ、986年の東宮鶏場での80番勝負、1,006年の花山院での鶏合せなどの記録が残されています。この当時の闘鶏に使われた鶏は、平安時代に渡来した「小国」であったろうとかんがえられており、本題の「軍鶏」は未だ姿を見せておりません。「軍鶏」は江戸時代初期にシャム(現代のタイ国)から渡来したとされ、その名称シャモはシャムにちなんだものです。現在、タイ国においては闘鶏が盛んに行われ、「軍鶏」と良く似た鶏がつかわれております。この「軍鶏」の冠は戦うのに適した小さな三枚冠またはクルミ冠と呼ばれるもので、身体は筋骨逞しく、眼光鋭く、姿勢は直立して見るからに精悍です。その勇猛な性質と姿から、渡来当時未だ戦国時代の気風の残っていた武士に、好んで飼育されました。また、その肉は極めて美味で、他の鶏種(所謂地鶏)との交雑種がシャモ落しとして利用され、江戸ではシャモ鍋が名物でした。

○茨城の養鶏
 茨城県の鶏の飼育羽数は、常に全国のトップを争う位置にあります。この要因としては、広大な土地、温和な気候、大消費地に接近していること、大規模な飼料工場群の存在などがあげられますが、面白いことにかなり古い時代から鶏の飼育の盛んな地域であった可能性があります。古墳時代には副葬品として埴輪が作られていましたが、その中に鶏の埴輪がありました。少々古いデータ(1969年)ながら、鶏の埴輪の出土地が群馬県(18ヵ所)に次いで全国2番目(7ヵ所)であり、千葉県と奈良県が3番目(4ヵ所ずつ)という資料があります。鶏の埴輪の出土地数が、鶏の飼育羽数と比例するかどうかは判りませんが、埴輪は死者の生前の生活を再現するのが目的とも言われていますので、出土地が多いのはそれだけ広く飼われていたと考えることも出来ると思います。地の利に恵まれ、山海の産物の豊かなこの地には鶏もまた多く飼われて、人々の生活を豊かにしていたのでしょう。

○水戸黄門と「軍鶏」
 時代はずっと下り、江戸時代初期になります。徳川15代の基礎を確立した三代将軍家光は、殖産にも力を注ぎ諸大名に産馬、養鶏等を奨励しました。この家光の時代に、オランダ人によって「ポーランド(ポーリッシュとも)」種がもたらされ、幕府で飼育されるとともに、「金色ポーランド」が仙台の伊達家、「白毛冠黒色ポーランド」が水戸徳川家に下付されました。
この「ポーランド」種はみごとな毛冠を持ち、産卵能力も当時としては優れていました。そして同じ頃に、中国(或いは朝鮮)を経由して「軍鶏」が渡来しました。当時水戸藩では二代藩主、かの高名な水戸黄門=徳川光圀が藩政を執っておりました。藩では大野村(現高萩市)に牧場(大野牧)を設けて、馬の生産とともにこの「ポーランド」種や新しく渡来した「軍鶏」の増殖を図り、種鶏、種卵を領民に下付してその普及を図りました。これは殖産が目的と言うよりは、勇ましい「軍鶏」によって勇武な気風の涵養を目途としたものと思われます。しかし、「ポーランド」種についてはその後何故か記録に残らず、間もなく絶えてしまいました。そして、明治20年に再度輸入されましたが、現在ではその優雅な姿から、主に欧米で愛玩用に飼育されているだけとなっています。
「軍鶏」を使った闘鶏は、江戸時代には全国的に広く行われるようになりましたが、五代将軍綱吉の生類哀れみの令を始めてとして、その賭博性から幕府は度々禁止令を出しております。しかし、利根川の下流域は幕府の直轄地(旗本の領地等)が多く、監視の目もあまり届かなかったため、闘鶏が盛んに行われており、このため、「軍鶏」も多く飼われておりました。「軍鶏」が昭和になって天然記念物に指定された際に、その主要な飼育地として東京都、青森県、秋田県及び高知県と並んで茨城県と千葉県があげられたのは、これらのことが与かっていたものと思われます。

○「軍鶏」と「奥久慈しゃも」の関係
 更に時代は下ります。戦前の陸軍最大の年中行事である陸軍特別大演習が、昭和4年に茨城県において挙行されました。昭和天皇が総監のため行幸され、召し上がる食肉、鶏卵、牛乳等を県が調達しました。この時、鶏肉用として購入されたのは「軍鶏」が36羽、「名古屋」が27羽及び「ロードアイランドレット」種が2羽という記録が残されています。これは、肉の味が優れていることと、これらの飼育が県内で盛んであったためと思われます。そして、偶然にもこの3種の鶏を組み合わせたものが、「奥久慈しゃも」なのです。
もともと「奥久慈しゃも」は、肉の味と雛生産の効率を求めて鶏種の組み合わせを決めたものですが、この偶然の一致には少なからず驚かされました。或いは偶然ではなく、長い歴史のもたらした必然なのでしょうか。
 この後の「奥久慈しゃも」の成立と展開は、前期18年10月号のとおりです。

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