「奥久慈しゃも」は現在、高級鶏肉としてゆるぎない地位を確立しており、マスコミ等にもたびたび取り上げられ、その販路は北海道から九州にまで及んでおります。

 しかし、ここに至るまでの道程は、決して生易しいものではありませんでした。県養鶏試験場の木村育種部長(当時)が、大子町の有志から依頼を受け、県北の中山問地域振興策の一環として育種を開始したのは、昭和50年代後半でした。育種の基本方針としては先ず肉の味を最高のものとすること、次いで雛の生産の効率が高いこと、更に雑種強勢を利用して産卵率と育成率を高いものにするため種鶏(雌系)もF1とすることなどでした。数々の試験を経て鶏種の組み合わせが確立しましたが、肉の味の点から種鶏の雄系は「軍鶏」を使用し、F1とする雌系の雄はこれも肉と卵(さくら色の殻)の味には定評がある「名古屋種」、雌系の雌には肉の味も良く産卵の高い(赤色殻)「ロードアイランドレッド種」を使用することとしました。また、茨城県はもともと「軍鶏」の飼育の盛んな地であったので、この点からも「軍鶏」を第一に採り上げました。
 この組み合わせによる肉の味は最高であり、種鶏の産卵率と肥育鶏の育成率は極めて高く、当初目指した性能を悉くクリアした他に、F1種鶏の産む卵の味もまた、素晴らしいものとなりました。
 昭和50年代後半は高度経済成長期であり、経済的に豊かになった人達は当時のブロイラーに満足せず、昔の鶏肉の味を求めるようになってきました。このため、全国各地で肉の味を求めた育種が開始されましたが、「奥久慈しゃも」の誕生は、このなかでも極めて早い時期でした。
 このようにして、鶏は出来上がりましたが、問題は販路の開拓でした。鶏肉業界や多くの消費者は高級鶏肉に未だ馴染みが薄く、ブロイラーは勿論、豚肉に比べても高価な鶏肉は、容易には受入れられませんでした。このため、担当者は身を粉にして売り込みに励みました。しかし、なかなか販売は増えず冷凍庫は満杯になり、担当者は途方にくれる日々が続きました。そして、まさにこのような時期に大阪で開催された“鶏肉の味のコンクール”に優勝したことが、販路の拡大の一大転機となりました。また、このことが多くのマスコミにも取り上げられ、全国的にも名前が知れ渡りました。その後、販売を全て組合が直接行なうこととし、小口(1羽でも)の宅配による販売も受け入れることによって販売先を増やして、安定した販売数を確保できるようになりました。
 また、品質については、生産者及び組合担当者の努力と現在の県養鶏研究室の指導により、常に生産物の品質の向上に努めていることが、消費者に高く評価されています。

 しかし、最近では全国の高級鶏肉の販売が増加しているなかで、残念ながら「奥久慈しゃも」の販売羽数は、県内における鳥インフルエンザの発生等もあって伸び悩んでいます。
 今後は、ますます厳しくなる他の地鶏との競争に対処するため、新しい技術、例えば無薬飼料の導入や、生産費の低減を図り鶏肉に付加価値をつけるための未利用資源の飼料化等について、県畜産課と養鶏研究室の更なる御指導を願っておりま
す。

〔参考〕「奥久慈しゃも」の生産体制
※県畜産センター養鶏研究室
 雄系原種鶏「軍鶏」の維持、種鶏雛の生産・組合への供給
 雌系原種鶏「名古屋種」と「ロードアイランドレッド種」の維持、F1種鶏雛の生産・組合への供給
※奥久慈しゃも生産組合
 雄系種鶏・雌系F1の種鶏の育成・飼育、生産計画の作成、種卵の採取、ふ化(業者委託)、生産農家への肥育素雛の配布、技術指導、出荷時の捕獲、運搬
 なお、「東京しゃも(東京都)」のように都の施設で種鶏を飼育し、肥育素雛の生産・供給まで都が行なっている例や、「阿波尾鶏(徳島県)」等のように、種鶏の肥育・種卵の採取・ふ化を県が業者に委託している場合もあります。(この場合、県が原種鶏を保存)