1.明治維新と殖産興業
 慶応3年10月15日(1867)大政奉還、同年12月9日王政復古の令を発し、ここに天皇親政の下に新しい政治がスタートし、270年に及ぶ鎖国・封建社会が終焉した。わが国は今後、諸外国と対等に国交・貿易を行うには資本主義国家の建設が必要であり、その基礎となる財政の確立は緊急かつ重要な課題であった。
 当時、わが国における基幹産業は農業であり、農業の生産力の拡大は経済力の増大につながるとして、新政府は「広く海外に良種の牛・馬・綿羊を求め、種畜改良の基礎を樹て泰西農器の使用による和洋混同農法の範を示し、わが国牧畜耕耘の事業を開かん」と西欧における「家畜を取り入れた大規模農業経営方式」の導入を政策目標に掲げ、農業生産力の拡大と増強を図ることとした。
2.広沢牧場の概要*
1)広沢安任(やすとう)の略歴
 安任は天保元年(1830)会津の少禄藩士広沢庄助の次男として生れ、嘉永5年(1852)会津藩校から選抜されて、江戸の昌平坂学問所に入学する。その後、会津藩主松平容保が京都守護職を勤めるにあたり、安任も京都勤番となる。このとき、多くの国内外事情に接し、「西欧文明の導入」の重要性を痛感した。
 会津藩は維新後旧領地23万石が取り潰しとなるが、明治2年に松平家の再興が認められ、奥州の地に3万石をもって斗南(となみ)藩として立藩する。同4年廃藩置県により斗南県と改称し、小参事となった安任は「余は牧畜に従事することに決心せり」と、泰西牧畜の農業経営の運営を通して新しい日本の富国化を志した。
2)牧場の開発計画と運営計画
 広沢安任がイギリス人2人を雇入れ、青森県上北郡三沢村(現三沢市)谷地頭の地に3,252町歩余の開牧に着手したのは明治5年5月27日である。この地一帯は旧南部藩九の牧の一つ「木崎牧野」の北部を占め、名馬の産地として知られ、野草の生育が極めて良好な土地であったが、土地改正時(明治5年
2月)に官有地となっていたものである。
○開発計画
 「牧畜は狭い業であるが、容易ではない。始めるにあたって3期とする」とある。
第1期(5年間) : 西欧人(5年契約)と共に開墾し、西欧型農業経営方式の習得。
第2期(同 上) : 勉励・解怠なく努め、増殖を図る。
第3期(同 上) : 収益を得る時期に至る。この5年間で過去に投資したものを償還する。
そして、「農事は現業であり、利得がなければ如何ともし難い。現業は地形・土質・気象によって異なり、執業する人は模倣しても成功はしない・・・」と記している。
 安任は開牧にあたり、@禄高5カ年分の下賜金(明治3年)を資金とし、A開墾の奨励(同4年)、B官有地払下げ(同7年)を受けるとともに多額の政府資金を利用している。盛田達三の研究によると、大蔵省・勧業貸整理見込書に「一金壱万七千百拾五円八拾三銭三厘、青森県広沢安任、但し、牧畜資本:牧畜改良に熱心し拝借出願に対し貸与したるものなり」とある。
○ 家畜の導入実績
 開牧初年度に導入した家畜は、牛については既購入し預けおいたもの牝50頭、岩手久慈郡より購入雄雌計130頭、東京より牽き来るもの洋種雄5頭、耕牛13頭、馬は洋種雄1頭、耕馬雄3頭、豚は30頭であり、3家畜で開始している。洋種雄牛の品種の記載はないが、当時輸入の最も多かったショートホーン(乳用タイプ)と考察する。
○牧場の建設と運営収支
 開発計画の第1期間内で目標とした圃場の開墾がほぼ終了し、支出総計は初年度の7,761円から5年度には1,307円と低下し、運営の安定したことが推察される。
安任の著「開牧五年紀事」(明治11年1月記)と関連解説記事(いずれも三沢市の先人記念館蔵)および青森県畜産課の提供資料による。