はじめに
 牛乳(酪、蘇)は奈良、平安時代に薬用として珍重され、貢ぎ物として献上が義務づけられていたが、武士が台頭し、戦乱が続くと牛から馬への生産が盛んになり、貢ぎや献上は途絶する。
 近世になって八代将軍徳川吉宗が享保13年(1728)インド白牛3頭を輸入して「嶺岡牧場」に放飼・繁殖を図り、牛乳を復活させた。同牧場には和牛も放牧されていたので、和牛との交雑種も明治2年(1869)には268頭を数えるまでに増殖していた。しかし、明治6年より全国的に流行した牛疫によってわずか24頭を残し、壊滅した。
酪農業の創始者
 わが国で搾乳と牛乳販売を最初に行ったのは前田留吉である。彼は下総国生まれで、20歳のとき横浜において外国人の体格の良さと文明開化の進展を目の当たりにし“乳飲用の風習化”を予測して牛乳販売に着目した。このようなとき、居留地に屠畜場を設けていたオランダ人スネールに雇われ、乳牛の飼育と搾乳技術を身につけた。ここで技術習得した後、慶応2年(1866)和牛数頭を購入し、横浜太田町に搾乳所を開設した。明治2年に設立された東京築地の「官営牛馬会社」の雇いとなるものの、明治4年に勤めを退き、東京芝で搾乳業を再開した。その後、搾乳業は東京府下をはじめ全国各地に急速に広まった。
茨城県の酪農業
 茨城県で初めて搾乳と牛乳販売を行ったのは大高織衛門(水戸家呉服御用商)である。明治5年桜の牧において牛馬、建物、立ち木などの払い下げを受けて搾乳業を開始した。
 その後、明治9年土浦町の八木下繁三郎、11年水戸市の石川強、14年水戸市の軍司利平、19年古河町の坂政勝、20年真鍋町の石引庫之助、鳩崎町の関口八兵衛、水戸市の村田正孝、25年平磯町の白戸宗三郎らが続々と起業した。
 明治28年には上山川村の廣井嘉平が搾乳業を始めた。廣井家は矢畑村において代々名主の役にあり、養蚕業を営んでいた。
明治21年嘉平は水戸で開かれた農業講習会に参加し、農事巡回教師織田又太郎から欧米の輪栽式農法の大要を聴き、家畜飼養の重要性に深く感銘した。 種々研究した後、短角雑種牡1頭、牝2頭を購入し、基本理念の“無牛・無農”である耕種、養蚕、畜牛の三部門構成による大規模農業経営を開始した。
飼料作の史的概観
 西欧の牧草、飼料作物の種子を輸入し、最初に栽培を行ったのは明治4年に開設した「開拓使農場」、「七重勧業試験場」、「札幌種芸園」などである。明治8年には「内藤新宿試験場」、「下総牧羊場」においても実施されたが、当時は栽培技術の知識が乏しく、試行錯誤の連続であったと推察される。明治37年に「七塚原種畜牧場」において牧草・飼料作物の適種選定及び耕種法基準設定のための本格的な試験が開始された。
茨城県の飼料作
 茨城県においても明治35年開設の「茨城県種畜場」で38年より栽培試験が実施された。44年にプレリーグラスの採種を行うとともに、牧草種子配布規程規定(県告示623号)を定めて無償配布と栽培普及を開始した。
 当時の県内の栽培状況は不詳である。資料が残っているのは昭和3年に作成された上記廣井農場の飼料作物栽培表である。これによると、実取り用としてえん麦、デントコーン、サイレージ用として大豆、デントコーン、青刈り用として禾本科と豆科の混播牧草、大豆、デントコーン、えん麦とコモンベッチの混作、根菜類として甘藷、ビート、かぶなどが栽培され、堆肥、蚕種、燐肥、米ぬかが施肥されている。他の農場においても同様な飼料作物が栽培されていたものと類推される。このように比較的短期間に栽培技術が普及したのは、各地の牧場から種牛を導入する際に牧草、飼料作物の種子を払い下げるとともに栽培法や特性などが教授され、これらの知識をもとに農場内で飼料作栽培体系を確立したものと思料される。